豊岡市立美術館–伊藤清永記念館–(旧出石町立伊藤美術館)
設計: 宮脇檀建築研究室
竣工: 1989年
構造: 鉄筋コンクリート造(一部木造)、地下1階、地上2階
延床面積: 956.20平米
外観は、伝統的な木造建築の構成を踏襲し、出石地域に多く残る瓦屋根を採用することで、隣接する家老屋敷や地域の建築群に一見溶け込んでいるようにも見えるが、内部の展示室にはアルミ、木、布など多彩な素材が用いられ、徹底して現代的に仕上げられている。
建築が建っている地面という表層は、単なる土ではなくて、そこに無数の細菌や微生物という生物から始まって、その上に流れた歴史の記憶までを鋤き込んだ有機体である。そんな土の上に建てられる建築なのだから、やはり同じようにその土地や環境の周辺に具体的に展開する物的な環境や人びとの営みの息吹、そして目に見えない霊気のようなものまでを受け止めて、呼応しあう建築を建てたいと思う。*1
宮脇檀(1936–1988)
東京藝術大学、東京大学大学院を経て「宮脇檀建築研究室」を設立。一貫して住宅設計を手がけ、伝統とモダニズムが融和した住まい作りで一分野を確立。日本の集落をつぶさに観察し、その美しさに感動した宮脇は、建築単体など狭い部分を対象とした従来のサーベイから、集落全体もしくはそれに準ずる共同体を実測し、それらを視覚化、分析するデザインサーベイの概念を実践した。出石地域には美術館の他に豊岡市役所出石庁舎(旧出石町役場)、斎藤隆夫記念館静思堂など宮脇が手がけた建築が残る。
*1 「出石町役場 宮脇檀建築研究所 解説:環境と呼応しあう建築 宮脇檀」(『新建築』1993年6月号)
日本・モンゴル民族博物館
1996年〜
日本・モンゴル民族博物館の設立経緯
1980年代から但東町は大阪外国語大学(現・大阪大学)モンゴル語学科のゼミ生たちを通じて、モンゴル国と交流を深めていた。1994年、但馬地域を会場に開かれた「但馬・理想の都の祭典」で、但東町は「森と砂漠を結ぶ国際シンポジウム&音楽祭」を開催し、在モンゴル日本国大使館に勤めていた金津匡伸氏が収集したモンゴル民具・民芸品を展示し、好評を得る。
当時、但東町は他の地域にはない文化施設を建設したいと考えていた。一方で、金津氏は個人で資料館をつくる構想を持っていた。その後、町による度重なる事業協力依頼を経て、金津氏は全資料を但東町へ寄贈することを決める。こうして1996年11月、モンゴルの遊牧民の暮らしを伝える施設として、日本・モンゴル民族博物館がオープン。モンゴル民族の文化や伝統を実感してもらうためにモンゴルの住居である「ゲル」をシンボルとして、様々な生活民具や伝統工芸、宗教関係の資料や絵画など幅広い資料を収集・保管する。本館を通じた異文化体験によって、子どもが初めて外国を意識すること、世界各国を視野に入れたグローバルなものの考え方や、体験希求のきっかけとなるような活動を実施している。
主な展示内容
「アジアの歴史と風土」コーナーでは、ゴビ砂漠の恐竜の卵の化石や、古代の青銅製の武器・馬具・副葬品などを展示し、「蒙古襲来」に関する説明などをおこなっている。「モンゴル草原の暮らしと文化」コーナーでは、自然と共に生き、遊牧を営むモンゴルの人々の生活を紹介しており、移動式住居「ゲル」の実物大の展示をはじめ、民族楽器の「馬頭琴」や伝統的な玩具の「シャガイ」(羊のくるぶしの骨)、乳製品を作る道具などを展示。民族衣装「デール」を試着できる場所もある。「モンゴル草原のいのり」コーナーでは、モンゴル民族の自然宗教であるシャーマニズムに関連する資料や、チベット仏教の信仰に関わる仏像・法具・経典・絵画などを公開している。その他、博物館が所在する但東町の歴史に関する展示や、昭和30年代ごろの古民家を再現した伝承文化体験交流室もあり、山里の暮らしと文化を伝えている。
(朝倉由美/日本・モンゴル民族博物館 学芸員)
「龍宮の舞」の面
1955年頃〜1998年
「天与の景観の活用にあり」を掲げ地域経済の再生を目指す日和山観光株式会社は、日和山遊園(現 城崎マリンワールド)内の特設舞台にて、浦島太郎と乙姫による舞踊ショー「龍宮の舞」を1998年まで上演していた。浦島太郎役を木瀬和代が演じ、石本幸子が2代目乙姫の役を担った。二人は約40年に渡って共演し、舞踊を踊り続けた。また、そのからくり舞台装置の操作を含む丘番(黒子)を三重県鳥羽市から就職で来た15歳の海女たちが行っていた。同時に、彼女たちは海辺につくられた神殿のような場所で「海女の実演」ショーも実施しており、盃を海に客が投げ込み海女たちが潜って拾うということを繰り返し披露した。雨の日も、雪の日も、台風で波が荒い日も、その演目が中止されることはなかった。その若い海女たちは城崎で約3年間働いたあと、里に戻って親に決められた相手と結婚することが一般的だったという。中にはその土地に残ってそのまま嫁入りするものもいた。
本展にて展示されている面は、実際に「龍宮の舞」で使用されていた、浦島が玉手箱を開け、翁に成り替わるための面である。日本舞踊で使用されているものと同様に口で咥えて装着する「くわえ面」となっている。
(中島明日香)
ミラクルひかる
豊岡市出身
衣装: PUGMENT
カニ
まぁあのぉあたしの友達が民宿をしてまして。夜ね、友達とみんなで泊まりに行って。地下のカラオケででてくるおやつはだいたいセコガニというやつで。まあ、名前がすでにセコイんですけども。そのカニをね、そこのジジィが、でけぇ皿に山盛りで持ってきてね。これでも喰いねえつって。こっちはもう中学生ですから、チョコパイとか食べたいんすけども。山積みになったセコガニをみんなで喰いながら、カラオケを歌うんですけども。まぁもうカルトですけども。(YOUさんの声?)
玄武洞
玄武洞、玄武岩、玄武岩を削ってキラキラさせた物をおみやげ屋でよく見かけました。あれは玄武岩だったんでしょうか、よくわかりません。でも非常に珍しい珍しいそれはそれは宇宙に匹敵する素晴らしい岩だということを聞いております。なぜならあの玄武岩は非常に縦線が激しく、ありえない、まるで割り箸を割って、積み重ねたかのようなよくわからない不思議な岩。その岩の下でわたし達は、毎年毎年ピクニックをさせられ、玄武洞、もう飽きたのに、毎回ピクニックに行かされ、そして写真を撮らされ、小学生、毎年毎年玄武洞の社会見学に行かされ、何をすることもなく。そして、その下で売っている手作りところ天を食べさせられ。それだけは憶えております。(草間彌生さんの声?)
円山川
円山川、円山川は豊岡に流れる本当に美しい川でございますけども。ときにむかしポカリスエットのCMでカヌーを漕いだ場所でもございます。ちなみに円山川が氾濫して近くの小学校は3階まで埋まり、そして、うちが経営していた美容院も床下浸水しました。とても大変。被害者の方もたくさんいらっしゃったにもかかわらず、うちの母親に電話をしましたら、お母さん大丈夫?と言いましたら、あぁ床が浸かったけど、結構掃除ができて助かった。そう言っておりました。そんな円山川、日本のモルダウ、と豊岡のひとたちは勝手に言ってます。(草間彌生さんの声?)
今西仙照
今西仙照は香美町香住区柴山に生まれ、3人の兄、2人の姉と共に育つ。父と兄は蟹漁を営んでいた。二十歳の頃、師匠の三輪仙舟氏に弟子入りし4年ほど働く。仙照の「仙」は師の仙舟から一字をもらいつけた雅号である。その後、日本画家のもとで8年間働き、技術や造形力を磨く。1987年、余部鉄橋列車転落事故で鉄橋下の水産加工所で働いていた従姉妹を亡くしたことから、従姉妹夫婦の所有していた鉄橋近くの土地を借り受け、現在の「レンゴー広告」を立ち上げる。
独立して最初の造形は、民宿から依頼された船の看板だった。その際、漁師でありながらも自ら船を修理したり作ったりしていた兄に相談したことから、FRP(繊維強化プラスチック)による造形看板の制作が始まる。口コミによって徐々に依頼が入るようになり、気比の「民宿よしおか」から蟹の剥製看板の依頼を受ける。本来は蟹そのものを使用して剥製にするのだが、もっと大きいなものを作ってみてはどうかと依頼主に話を持ちかけ、そこから巨大な蟹の看板を扱うようになる。
数年後、久美浜にある北畿水産の直営店「かに一番」にて全長20mの蟹のオブジェを制作、設置。当時は足を骨折しており、松葉杖をつきながらの作業であった。その店舗の屋根の上に乗っている20mの蟹を、当時ヘリコプターで蟹の買い付けに来ていたかに料理店の「山よし」の社長が気に入り、制作依頼を受ける。京都四条河原町店の外壁に9mの蟹を取り付けることに繋がる。
その他にも「香住 北よし お初天神店」に1m50cm、香住で魚介類を販売する「まるや」に3m、城崎駅前通り沿いにある鮮魚店「いなば」や、「かすみ朝一センター」、浜坂漁業組合、香住水産加工業協同組合、香住駅改札内、北陸方面では4体の蟹と、様々な場所にオブジェを設置する。ちなみに、県道3号線沿いにある「海の駅」では、蟹の爪が動くようになっている。
本展では、全長3mの蟹の爪部分のみを展示。設定から砂地に生息する生きた蟹をイメージし、マットな塗装を施した。
(中島明日香)
伊藤清永《磯人》
1936年
豊岡市立美術館-伊藤清永記念館-蔵
1935(昭和10)年に東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業した清永は、国が主催する官展での受賞を狙った大作を制作するため、画題を求めて三重県志摩の安乗に三ヵ月滞在した。志摩半島は、美術学校で師事していた洋画家の岡田三郎助(1869-1939)から勧められた土地である。
当時は海女の裸形を許可なく撮影する観光客が目立ち、清永も初めは地元から拒まれていた。半月ほど経ってようやく海辺の人々と打ち解け始めた清永は、漁村で逞しく生きる海女たちをモデルに定めて取材に取り掛かる。知り合った海女や船頭は新鮮なアワビなどを差し入れ、苦学生時代に二度も命に関わる大病を経験した清永の身体は制作に没頭できるほどに回復した。
文部省美術展覧会監査展で選奨を受賞した本作は、清永の念願どおり画家への足掛かりとなった作品だが、その後60余年続く画業で主題とした「裸婦」の方向性を示す作品でもある。描かれた海女はアカデミックなモチーフとしての裸婦ではなく、健康的な褐色の姿態には労働の楽しみや海での大らかな生活を思わせる動勢がある。また、画面右上の赤子を抱く女性には、清永を献身的に支えた母親の姿が重なる。「日本女性の持つ独特の肌の美しさ、ふくよかさ、健康的で精神性の高い柔和さ。それを表現することに努力し、日本女性の裸婦を母性への偶像にまで昇華させたい*1」と後年の清永は裸婦について述べているが、《磯人》はその原点を象徴している。自ずとそれぞれの海女に視線が誘導される群像は俯瞰構図と配色の妙であり、清永は本作の成功を萌芽として、キリスト教などの西洋的主題から離脱した日本独自の油彩による群像制作に挑み続けた。
本作は日中戦争の前年に制作され、東京大空襲の際には旧蔵者によって額装を外し丸めた状態で防空壕に入れられて戦火を免れた。現在は清永の故郷・出石にある当館に常設されている。
*1 「芸術に賭けた半生を振り返って」(『三彩』第504号、1989年、三彩社)
(野村由佳/豊岡市立美術館-伊藤清永記念館- 学芸員)
喫茶 麗水
1982年頃〜2019年
2018年の3月のある朝のこと。円山川沿いの道路を車で走っていると城崎と豊岡のちょうど真ん中あたり、「麗水」と書かれた寂れた看板が目に入った。何日もここを車で通っていたが気づかなかった。どうやら喫茶店らしい。車を駐車場に入れ、店の中の様子を伺うが、客がいる様子はない。ドアを開けるとカランというドアベルの乾いた音。店内から声はしない。中へと足を踏み入れると、店の隅、入り口からは死角になっているボックス席に店主らしき初老の男性が座っていた。窓から差し込む逆光に店主の顔はよく伺えない。ホットコーヒーをひとつ注文すると、何やら書き込んでいたスポーツ新聞を置いて、店主はカウンターの奥へと消えた。テーブルには眼鏡とリモコン、LARKのボックスとライター、あとはよく先が削られたBの鉛筆。かたわらのスポーツ新聞にはやりかけのクロスワードパズル。ほどなくして出てきたコーヒーには厚切りのトーストが添えられていた。丁寧に淹れられたコーヒーは満足のいくもので、店の構えとは裏腹な印象を残した。帰り際、店の名前「麗水」の由来を聞けば、この近くの山肌からから染み出す湧き水にちなんで名づけたのだとか。なるほど、コーヒーの味に合点がいった。あと気になったのは壁のシミ。黄ばんだ横スジが幾つか。曰く、店の横に流れる円山川が氾濫するたびに店が浸かった水の跡なのだとか。膝丈くらいのもあれば背丈くらいのものもあった。その麗水も2019年の6月をもって閉店したと聞く。店主はいまもどこかで黙々とクロスワードパズルをしているのだろうか。
(田村友一郎)